2025年3月22日、埼玉県は寄居町にある鐘撞堂山を歩いてきました。
標高330mの低い山ですが、戦国時代に関東を支配していた北条氏が鐘を置き、尾根沿いに歩けば虎ヶ岡城址、陣見山と戦に先立って人々が歩いた山であることがわかる歴史の山でもあります。
現代においてはハイキングコースとしてそれらは整備されており、秋から春にかけて子供たちでも楽しめる山遊びを提供してくれる場所です。
今回は3月後半、カタクリには少し早い時期でしたが春の陽気の中を気持ちよく歩ける日を選んでハイキングを楽しんできました。秩父鉄道は桜沢駅から樋口駅を目指して、鐘撞堂山を歩くメジャーコースでは最も長い約13㎞の道を歩きます。
redsugar歴史と里と昭和の定食が印象に残る登山でした。何気ない景色に潜む凡庸な顔をしたものに目を向けると面白いコースでもあります。
鐘撞堂山日帰り登山の概要
秩父鉄道桜沢駅から歩く鐘撞堂山






2025年3月22日午前6時50分、熊谷駅。
おはようございます、Redsugarでございます。
本日の目的地は埼玉県寄居町にある鐘撞堂山、秩父鉄道の駅から歩き始めるということで熊谷駅へとやってきました。
3月後半ともなれば朝であっても暖かく、ホットコーヒーではなく冷たいコーヒーを味わうことができます。
埼玉県は行田から秩父三峰を結ぶ電車に揺られ、一路桜沢駅へ。




午前7時40分、桜沢駅。
秩父鉄道には秩父路と呼ばれる特急がありますが、それ以外は各駅停車になります。
熊谷駅からいくつもの駅の景色を経て約1時間後に桜沢駅に到着。山間の小さな駅ですが、学生たちが下車していきます。そこに住んでいる人達の日常的な営みを身近に感じることができることの一つに、朝の駅があるんじゃないかなぁ。


駅を出て狭い路地から這い上がると、八幡山までの丁寧な目印が置いてあるではありませんか。迷うことはなさそうです。




登山口となる八幡神社にやってきました。何でもない片田舎の神社に見えるこの神社、実際にそうなんだと思うけど。
ここで一つ風景を見るために非常に感銘を受けた写真家の露口啓二さんの言葉を引用します。
景色の中には意識しなければ見ることができないものが潜んでいます。凡庸な風景を、その風景の馴致に抗して凝視してみれば、そこには現代の「政治的なもの」「歴史的なもの」が見えてくるかもしれません。真に「政治的なもの」、それはいっけん「非政治的」な顔をしているし、「歴史的なもの」は隠れています。それらは凡庸な顔をして私たちの視線を逃れているのです。
〈聖なるもの〉を撮る,67項 二十一世紀に写真でできることはあるか 露口啓二
この写真を撮影したときは何も気が付きませんでしたが、後で編集する際によく見て驚きました。
その入り口には「神威宣揚」「戦捷紀念」と刻まれた石が何食わぬ顔で建っています。これは明治三十七年の日露戦争における日本の勝利を記念して作られたもので、大高取山登山の際に出くわした砲弾の奉納品と同じような立ち位置のものと考えてよいでしょう。
低山を歩いていると里を歩くことにもなりますが、風景の中には本当に色々なものが潜んでいると実感します。




午前7時55分、八幡神社。
神社を奥に進むと本堂が見えてきますが、脇には古ぼけた千羽鶴がしんなりとした身振りで飾られています。朝露で少し湿ったそれらは少しだけ黴の気配を感じさせる。


本堂の奥にある八幡山山頂を案内する木柱から登山はスタートですが、写真の右側に面白い石碑が立っていました。




ぼうぼうと生い茂った藪の中にひっそりとたたずんでいた石碑ですが、日露戦争で出兵したこの地の方々の記録を今に伝えるようなものでした。百年以上前に刻まれた帝国在郷軍人会という石碑は、教科書やフィクションを記した本やアニメといったものとは全く違うリアリティを感じさせてくれます。戦前のいつかに、誰かが建てた物体が持つリアルは文字を通して頭の中に立ち上がるイメージとは、日露戦争という共通の方向性を持ちながら全く違う迫り方をしてくる。



ここは八幡神社の境内。八幡神はヤマト王権の軍事彩色を強めたという第十五代応神天皇を祭る神社となります、軍神を祭る場所だからこういうものが残っていても不思議ではないというお話です。
時代によって人の価値観や感性というのは変わっていくのだなと思わされる。






午前8時20分、八幡山。
八幡山の山頂はこちらと書かれた案内から登り始めるとほどなくして山頂に到着します。やや気が抜けた頂上の看板の周辺は藪が生い茂り、眺望の類はありません。


鐘撞堂山へ向かう。切り開かれた雑木林に朝の傾いた光が差し込みその時間でなければ楽しめない景色が広がっています、林業の手入れの後のほうが景色は明るいよね。


切り株にビニールがかぶせられたオブジェが斜面を覆います。何でもかんでも包みやがって、クリストかよとか、ドット模様の斜面に草間彌生かよという気持ちが沸き上がりますが、これは全部防虫のための処置です。



クリストっていう作家は凱旋門とかドイツ国家議事堂を布で包んだりした現代美術の作家です。検索すると面白い作品がたくさん見れます、本当に布で包むだけです。


森のすべてに防虫加工を施しているわけではないようで、まだ細い若木がある場所との境目がくっきり。


登山道わきの木々を中心に伐採と防虫処理が行われていたため、日当たりは非常に良い。




足元にはカタクリの葉が芽吹いていたり。朽ちた木を分解するためにキノコの類が必死に活動していたり……。



キノコやサルノコシカケといった種がいるおかげで木が分解できます。木は何で木なのというと、木質(リグニン)があるからと言えるでしょう。石炭紀と呼ばれる約3.5億年前はキノコが存在せず、巨大な植物の遺骸が分解されずに地中に埋もれて石炭になったという時代だったりします。


登山道はよく整備されていて、小学生低学年の子供がお父さんと一緒に歩けるような道が続きます。
実際この日は数組の親子連れを鐘撞堂山で見ることに。


木々の合間から麓に見えるのは大正池です。焼岳の噴火で梓川がせき止められてできた上高地のあの大正池、じゃなくて……大正六年に竣工した農業用のため池です。
大正時代にできたから大正池というのは全国にあるそうです。耕地整理法が明治32年に制定された後、日露戦争で米不足が深刻化したことを背景に全国的に水田開削が進められました。1914年に勃発した第一次大戦と、1917年のロシア革命の影響を懸念し日本はシベリア出兵を行いますが、それを受けて商人が米を買い占め米価格が暴騰。米問屋の打ちこわしなどが発生するという米騒動が発生しました。大正池はそういう時代に作られた池なのです。



今、米を仕入れれば高値で売れることができる……!っていうの歴史上によく出てくるな。


景色が開けて遠くが見えるようになってきたぞ?というところで、都心方面に目を向けると……煙が上がってる。
嵐山方面の丘陵地帯からのろしのような煙が上がり、上空の気流を可視化するような大きな帯が作られていました。



こういうのを見ると、戦国時代にのろしを上げて合図を送ったとか。遭難したらのろしをあげろとか、そういう話が頭をよぎるなぁ……。確かに遠くからもよく見えるわ。
鐘撞堂山から円良田の集落へ、里山を歩く






午前9時25分、釣鐘堂山。
鐘撞堂山の山頂付近には山桜の花が新緑を迎えようとしていました。北条時代からと考えると歴史は400年ほどという山頂には関東平野を見下ろす展望台が現代の行政の手によって用意されています。



お食事処としてはこの展望台良し。東屋にもなっているし。


鐘撞堂山の由来になったであろう鐘がどれほどの大きさだったのでしょうか。小田原征伐の時代なのでうかがい知ることはできませんが、現在では50リットルの登山ザックほどの大きさの鐘が用意されています。
隣に用意されている木槌でたたけば甲高い音が鳴り響き、耳をふさぎたくなるほどです。



この山頂に置いた鐘がふもとまで聞こえたかというとそれは疑問。除夜の鐘みたいなサイズならできたかもしれないが。小さい鐘を山中にいくつかおいて、リレー形式で打ち鳴らしたのかもなぁ。


本日のメインピークである鐘撞堂山ですが、登山前半でそこは終わってしまいます。大小アルプスにおける大小山、妙義山のようなスナック菓子っぽさが否めないが、低山を歩くというのはメインピーク以外に楽しみがあると考えましょう。



しかし、道中の桜の木の多くがキノコ類に猛攻を受けている。木の抵抗力が落ちることで菌類が栄えるのですが、そういう木々が多い印象がありました。


街道沿いの杉林を眺めて歩く。その昔街道のそばに植えられた松は街道松と言ったそうです。これは街道杉で。


杉林の中に唐突に置かれていた竹細工のかご。細い竹を編み込んだ模様は籠目の模様といって六芒星の形をしています。こうした幾何学図形は世界の工芸品の中に現れる図形の一つなわけですが、国旗などに使われることで別のコードを持たされたりもしていますね。




山の斜面にずいぶんと低い青い屋根が見えてきました。崩落した小屋にしてはよく整備されていることもあり、立ち寄ってみると炭焼き小屋でした。山奥の炭焼き小屋を令和の時代に見るのはなかなかレアな経験です、使うであろう道具を見ると……火を焚くには灯油なんですね。


雑木林ともとれる森の中を歩いていくと円良田の集落へとたどり着きます。


午前10時25分、円良田集落。
出発した桜沢駅から鐘撞堂山にかけては埼玉県寄居町の範囲でしたが、円良田の集落周辺は美里町の範囲になります。鐘撞堂山と虎ヶ岡城址の間にあるこの集落は山間の低地に築かれており、斜面に沿って立つ家々と田園風景が特徴的です。



山の斜面で作業している人たちは……何をしているんだろう?


残念ながら都市への集約が進む昨今において、地方は空き家が増えている状況。登山口を抜けた先にある、谷筋の家は管理している人はいるのかもしれませんが、立派な母屋に人の気配はありません。




円良田の集落を南北に走るのは県道349号線広木折原線です。その傍らには円良田の庚申塔が立っていますが、隣にゴミ捨て場があるのは現在においてあるあるな景色だと思う。100年前であれば考えられないような景色じゃないでしょうか、だってこれもともと割と聖なる場所じゃないですか?
現在の景色を眺めてみると、祈るとかそういうものが身近でもなくリアルでもなくなった結果、聖なるものが公共っぽいものに変化して、ごみ収集場と合わせられる、みたいな。
昔は聖なるものに失礼を働くとバチが当たると思ってた、それが現在では公共機関の制定したルールを破ると罰せられるに変化していった側面ってあるんじゃないかな?とか想像できたり。



これ中西敏貴さんの写真集「地と記憶」で撮影されたオホーツク人の遺跡の上にゴミステーション(北海道ではそういう)があるとか、そういうのと構造的には同じだなと思う。祈る対象が不可視のものからAMAZONみたいな国際流通や、行政に代わっていくというのは写真家の北圭樹さんが話してた覚えがあります。価値観の転換がこうして風景に出てくるっていう。






さて、円良田の集落からは虎ヶ岡城址を目指して再び山へ入ります。段々畑の隣に通された道を上っていくのですが、年月が経過している林業作業の跡や、時代を感じさせる石垣を眺めながら歩くことに。



この辺の石垣ってコンクリで固められたり、石の積み方もきれいだったりするのだけど、これは形の悪い石を積み上げている。手作業感がすごく強い石垣に見える。


肉塊から触手がビャーーーーッと伸びるような不思議な木を見かけました。人の手が入っているようにも見えない、どういう外からの力がかかればこんないびつな形が出来上がるんだろう。


大した登りはないだろうと舐めていたのですが、虎ヶ岡城址から陣見山まではこれまで降りた分を取り返すような登りが続きます。あまりに急な階段が出現したときはちょっと立ち止まりました。


午前10時50分、虎ヶ岡城址。
階段を上り続けて一番高いところに到着しましたが、雑木林が広がり山頂っぽさはありません。美里町方面がよく見えますが、城を建てた意味の一つにこの眺めもあったのかもしれませんね。
虎ヶ岡城は別名円良田城とも言い、築城された標高337m周辺を「城山」と呼んだそうです。
詳細は不明とされていますが、戦国期に鉢形城支城群の一つとして食糧を供給する重要な役目を持っていました。そのため天正十八年の小田原征伐において真田昌幸の攻撃を受けて20日の防戦の後落城したと伝わります。
真田家最強のお父さんに攻められたら仕方ない、僕は息子の信繫よりもパパ幸推しです。



南北の眺めがよい山の上、その麓には街道が通されているっていう感じ。


虎ヶ岡城址からは生命力にあふれた森の中を進むことになります。不思議とこの周辺はうねる木々が多く空が見えないほどに森の密度が濃い場所でした。


安永九年の馬頭観音が道中に現れました。1780年ということで江戸時代に入ってからのものになりますが、この場所に馬や人の往来があったということでしょうか。円良田の里じゃなくてこんな山を通ってどこに行っていたんでしょう。付近は大槻峠という名前がついていますが、長瀞のほうから美里に抜けたりしてたのかな?



陣見山方面にも天保二年の馬頭観音があり、樋口駅方面へつながる道がありました。川沿いに歩くのではなく、峠を越えて三郷や児玉に行ってたのかもね。


奥武蔵名物の杉の回廊を上った先には陣見山があるはず。鐘撞堂山からの縦走登山となる今回のコースで最も景色がよいところまでもうすぐです。
陣見山から榎峠、里の定食屋へ


樹林帯を抜けると陣見山を見上げる林道へ出ることになります。杉林が切り開かれた斜面にはテレビ埼玉の電波塔がたっています。






午後12時00分、陣見山。
電波塔までどんな道で登っていくのだろうと思い近づいてみると、直登でかなり体力を消費する坂道でした。
切り開かれているので景色はこのコースでは一番いいと思える場所です。標高は531mと鐘撞堂山よりもよっぽど高い、つまり今回のコースは最後まで登り基調だったのかと改めて思い知りました。



山頂では小学生の子供たちを連れたご家族がランチを楽しんでいました。確かにこの山は隠れたハイキングスポットかもしれない。景色はいいし道路は近い、榎峠から歩いてもそんなに時間はかからないし。


周囲を見渡すと山を越えるために作られた送電線を支える鉄塔をいくつも見ることができます。
新岡部変電所から秩父方面へと延びる送電線ということらしいです。深谷市にある岡部は元々は岡部藩、渋沢栄一を輩出した土地です。






午後12時35分、榎峠。
陣見山から30分ほどで榎峠へとやってきました。山中に通された細い林道は石も木も落ちていない綺麗な道、その傍らに榎峠の標識が立っています。ただ日当たりは悪く、足元には前日の雪が残る場所が多かったです。


樋口駅までは古くから使われてたと思われる峠道を下っていきます。道中には天保二年に作られた馬頭観音が今も残っています。江戸時代もかなり後半、明治の足音が聞こえる時代に作られたものですね。




山中を歩いていると視界の端に目を引くものがちらほら、蛇かなと思ってよく見てみたら木の根だったなんてことも。


榎峠からのくだりは杉林の中に表面を磨き上げたような岩が転がる不思議な森が広がっていました。


登山道が途切れ、林道から山里へと下る道へ。登山口のぎりぎりのところまで畑が広がっているんですが、森と畑の緩衝地点が希薄だから、熊もすぐに畑に出てきちゃうよなぁ……と思う。


道中には樋口配水池と書かれたピカピカの建物が存在感を放っていました。よく考えると、鐘撞堂山から榎峠を歩いていて、谷筋を流れる川みたいなものを一切見ることがありませんでした。水ないわけじゃないよな……?


広々とした民家の庭には庚申塔ならぬ月待塔が建っていました。月待信仰塔は民間信仰の一つで、十五夜や二十三夜などの特定の月例の夜に講中で集まり経を唱えて月を拝み悪霊を追い払うような行事だったとか。
分類を見てみると当たり日は十三、十四、十五、十六、十七、十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十六……とあるようです。関東が信仰の中心だったようで、関西は数が少ないのだとか。






樋口駅に到着したものの、電車の出発までは微妙に空き時間がある……。秩父鉄道は本数が少ないので逃したくないものの、調理が早いご飯なら食べれるのではないか?ということで駅前の定食屋さんに飛び込み、一番早いメニューであるカレーライスを頂くことにしました。



田舎の定食屋のカレーっていう感じだけど、コクがあってうまい。蕎麦屋のカレーが実はおいしいという話に近い味を感じました。


店内を見渡すと大きなデッサンが。美術大学の試験で描くようなデッサンですが、普通に上手だな……と感心してみていました。僕の時代は手のデッサンが試験科目にあるのは東京の美大というイメージ、ちなみに自分は平面構成と石膏像をやってたから手のデッサンはしたことがないです。



絵柄的に娘さんな気がするなぁ。美大に行ったんですかね?






午後1時35分、樋口駅。
カレーを食べ終わるとちょうど電車が来る時刻。支払いを済ませて店を飛び出し樋口駅のホームに駆け込みます。誰もいないホームから目の前を見ると、学校のグラウンドを囲う壁に「水」の文字。
読んでみると1742年の水害の際に荒川の水位が急上昇し、水の字の高さに達したそうです。小学校の裏には当時の水位を刻んだ岩があるんだとか……。



そういう昔の災害の記録をもとに、居住地を作ったりしたほうがいいんだろうけど、そうはなってないのが現実。


秩父鉄道といえば秩父のアニメとのコラボ電車です。キャラクターがラッピングされた電車がやってきた……。
一番古いアニメで15年くらい前のような気がするが、聖地をめぐる人々の経済効果はいまだにあるのだろうか。
そんな電車に乗り込み、熊谷まで各駅の長い帰路に着くのでした。











コメント