2025年2月10日、茨城県笠間市の愛宕山から難台山、吾国山へと続く笠間アルプスを歩いてきました。
標高が最も高いのは難台山の553mとなりますが、コース全長が約15㎞、累計標高差は1,000m越え(ヤマタイム調べ)と歩き抜くには一日仕事となる健脚向きの縦走路となっています。
暖かい関東にあり雪が積もらない低山は冬の登山対象としては非常に面白いのです。
今回のようなご当地アルプスは高い山を目指していては中々縁がない街の景色を楽しむこともできます。
インフラが整備され都市と周辺が画一化されても、都市には都市の、周辺には周辺の時と風土があり、笠間アルプスではそれを感じることができました。
今回はJR常磐線岩間駅をスタートし、JR水戸線の福原駅を目指す形で笠間アルプスを歩きます。
近世から中世にかけての遺構が残る里から山中へ。筑波山を眺める山道からは古代の遥拝の香りが漂い、福原の駅では自然を貫く北関東自動車道の姿を楽しみます。
低山歩きを面白くしてくれるのは、土地とそこに根付く歴史の地層へ眼差しを向けること、笠間アルプス登山の始まりです。
笠間アルプス日帰り登山の概要
愛宕山へ、静かな笠間の街を歩く

2025年2月10日午前6時50分、日暮里駅。
おはようございます、Redsugarでございます。
本日は珍しく日暮里駅からスタートという、当ブログにしては10年ぶりくらいの出発地点からお送りします。
知らない人のために言っておくと昔の記事は西日暮里駅が出発点だったんですね。
西日暮里駅、山手線の外側に住んでた私ですが、静かだし谷中が近くていい街だったなぁ……と。
さてさて、本日なぜ日暮里駅かというと常磐線で岩間駅を目指すためです。
埼玉の北にある茨城、宇都宮線で小山あたりから乗り換えかな?と思っていたら、一度都内に出たほうが早いと知ってびっくりしました。



午前8時30分、岩間駅。
早朝の常磐線はガラガラ、最後に常磐線に乗って山に行ったのは宝篋山だっけな、等と記憶を遡りながら電車に揺られます。登山をしていると小田急・京王・JR中央線あたりによく乗りますが、JR常磐線はあまり覚えがない。
岩間駅に到着した後は地図を頼りに愛宕神社を目指すことになりますが、まずは駅前がどうなっているのかよくわからないのでうろうろ……うえしばもりへい?(植芝盛平)
redsugar岩間駅前にある立派な胸像は合気道の創始者とされる植芝盛平らしいです。このおじさん、調べると面白い話しか出てきません。


岩間の市街地は歩いていて、個人的に好きだなと思える「なんでもない景色」が多い町でした。
桐生・太田・足利といった北関東(渡良瀬川沿い)は鉱毒の過去もあるのか独特な寂れ方をしていて、それも好きなんですが、笠間市の岩間駅から六所神社まではもう少し古い歴史を感じる寂れ方をしているんです。


瓦屋根に雨戸が特徴の古い家屋がナチュラルに残ります。数は少ないけど、古い家が道沿いにあるのはいいですね。



埼玉でも見沼田んぼの周辺の調整区画には昭和初期の家が残っていたりして「昔々」が生きているんですよ。僕の家みたいな建売の、北海道でも九州でも見れそうな家じゃなくて、その土地っぽさや時間を感じれる家はいいなって思います。


愛宕山までは案内がしっかりとしています。なんかこの写真、奥の民家に看板がついてるように見える……。


愛宕山へ向かう道中にはいくつかの神社が姿を見せます。六所神社手前にある朽ちそうな神明鳥居の先は……氏神様のようです。西日暮里に住んでいた時はまず見なかったけど、埼玉の見沼田んぼ周辺に住んでいると敷地内に鳥居と社を持つ家が多いんですね。都会には敷地内に神様を祭るような場所はなくなったけど、田舎に行けばまだ残っていると歩いていて実感します。



ちなみに広大な敷地を持つ北海道は十勝地方に住んでいた記憶をたどると……敷地内に社を立てた家を見た記憶がない。






さて、まずは愛宕山にある愛宕神社を目指すことになりますが、その前にひときわ大きな境内を持つ神社が現れます。
冒頭にご説明した六所神社で、写真二枚目は境内にある石碑。写真三枚目はそこから少し先の三社神社です。
愛宕山に向かうまでの道中、短い距離の中に神社がたくさんあるのが笠間アルプスの特徴。



さて、概要で六所神社の元となった八幡神社は八幡太郎こと源義家を祭ると説明しました。そして八幡太郎はバイオレンスな武将といいましたが……代表的なお話を紹介します。
陸奥話記より
奥州征伐の際に自身を侮辱した敵将「平千任(ちとう)」を捕らえた八幡太郎は彼の歯を抜き、舌を斬り、その身を木に吊るす。その足元に千任の主君である清原武衡の首を置き、力尽きて脚を垂らせば主君の首を踏むように仕向け、ついに力尽き首を踏んだ千任の有様を見て「二年の愁眉今日すでにひらけぬ」と笑みを浮かべた。
侮辱した奴は殺してオッケーっていう今考えると暴力的すぎる武士の中でも引いちゃうエピソードではないでしょうか。




源氏って鎌倉殿の13人でもやばい人たちだったしなぁ……と思いながら愛宕山へ向かうと、今度は廃墟です。
すでに営業されていないウェディングパレス歌舞伎、歌舞伎って……どういう結婚式を挙げていたんだろう?




ウェディングパレス歌舞伎のお隣にあるのは飛龍浅間神社。すごい、岩間駅から愛宕神社までの間にでかい神社がいくつもある……。一番立派なのは六所じゃなくてこの飛龍浅間神社ですかね。



写真撮ってないけど隣に天正宮っていう扶桑教(富士講を起源とする教派神道)の施設もあります。信心深いな……笠間アルプス。


飛龍浅間神社ですが、廃墟と廃墟の間に挟まれているという不思議な立地です。廃墟を背景にパラソル椅子というよくわからない組み合わせを見ても「なぜ?」という感想しか出てこない。


扶桑教の一つである天正会教会の天正宮と飛龍神社の間にある廃墟、犬の置物が寂しく登山者を見つめてきます。
なんだろう、登山口に立つまでの街歩きだけど……鳥居を数えるだけでおなか一杯になっちゃった。
悪態祭りで有名な愛宕神社へ


ようやく登山口に到着しました。登山口に到着するまでが既に面白かったのですが山中はどんなものか。


山に入ると早速目に入るのは巨大な石碑。内容を見ると巡拝西国百ヶ所供養塔とあります。
百ヶ所!?となりますが、内容としては西国三十三番+坂東三十三番+秩父三十四番を巡った人の記念塔なんだとか。
江戸時代の風習を伝える石碑がこうして山中に残っているのはいいですね。



東北はないのか?と思ったそこの方。東北はご当地感がもっと強くなるんです……。最上三十三番とか庄内三十三番とか。
不忘山や大東岳の際に見下ろした秋保大滝などにある東北三十六不動尊は似ているけど微妙に違う、紛らわしい。


薄暗い森に通された階段の奥には、岬の突端のような人工的な壁。


階段を登りきると殺虫作業中の倒木がゴロゴロと並べられた道に出ます。
これは低山だと結構見る景色で、外来種の繁殖抑制等のための処置です。


季節柄ふわふわとした綿毛がいたるところを舞います。
2月10日という時期は花粉飛散のギリギリ前で、心穏やかに山を歩き回れる最後のタイミングです。



2月後半から5月までは花粉に耐えながら歩くことになるので、辛い。


松毬不動(まつかさふどう/まつぼっくりふどう)と呼ばれる小さな祠が現れました。松毬と書いて松ぼっくりですが、松ぼっくり自体が松陰嚢(まつふぐり)が転訛したものだと知って驚きました。



笠間で有名な悪態まつりというのがこの辺で案内されます。白装束を着た13人の天狗に向かって参拝客がバカヤロー!などと悪態を吐きながら山を登るという奇祭です。


笠間愛宕神社といえば悪態まつりらしいのですが、祭りが繰り広げられたのは12月。
2月じゃなくて祭りの日に登れば山中のいたるところで「バカヤロー!」が聞けたんでしょうか?
松毬不動から愛宕神社の参道にやってきました、静かで雰囲気はよし。
江戸時代の文化人平田篤胤が「岩間山に十三天狗、加波山に四十八天狗、日光に数万」と岩間にある愛宕山を書いています。愛宕神社の境内には飯綱神社も祭られており、古来から愛宕と飯縄の二つの信仰が同居していた場所とのこと。



日光だけいきなり適当な数字になったな。


ここにも歴史を強く感じさせる石碑が残っていました。なんと、女人結界の石碑があるではありませんか。
明治期以前、修験の山に女性は入ることができなかったのです。これは主に日本の古来からの価値観で、神域から血の穢れを持つ女性を遠ざけようというものでした。
岩間便覧には「往古婦女登山するときは血の雨を降らすと言ひしも、今は婦女の登山するもの甚だ多し」とあるそうです。



笠間アルプスを歩いていて女人結界を見るとは思いませんでした。悪態まつりという登拝行為が祭りになっている地域ということを視野に入れると、山は低いけど信仰には厚い場所だったということですね。






午前9時50分、愛宕神社。
山を登りに来たはずなんだけど、笠間アルプスの導入は寺社仏閣観光と言って差し支えない様子です。
愛宕神社の長い石段の登りは膝に来る……、登り切った先には非常に立派な造りの愛宕神社が現れます。




日本三大火守神社の一つとされる愛宕神社へ到着。三大〇〇とか三十三ヶ所とか、そういうが大好きなのか笠間アルプス。三大火守神社の内訳は笠間愛宕神社・京都愛宕神社本宮・秋葉山本宮とされています。
当社のつくりは本当に立派、創建は806年と伝えられており徳一大師開山だそうです。



以前、磐梯山の記事でもちょろっと書いた徳一さん。東国から南東北を中心に教圏を持つお坊さんでした。教科書で必ず習う最澄、空海と同じ時代を生きた方で、最澄とは書簡で熱いバトルを繰り広げた記録が残っています。
徳一さんもそうだけど、その後の歴史を見ていて思うのは、大和という国が徐々に広がっていくに合わせて城と仏閣とお坊さんも僻地というか、国の端へ広がっていくこと。最上徳内たちが蝦夷地を歩いた時にも僧侶が僻地に寺社を立てアイヌの人々に和式の文化を広めたりしていたという。そういうのを知ると西洋の宣教師とお坊さんの像が重なって見えたり、軍事的な境界線と宗教というものの広がり方から歴史を捉えたくなる。


愛宕神社の境内からは素晴らしい茨城の水平線が拝めます。北関東エリアの山といえば地平線・水平線の直線です。愛宕山の場合は海の方角に景色が開けていますが、真っ平です……。



これもしかして水平線か!?と思い写真を原寸で確認したところ、地平線でした。




愛宕神社の境内には飯綱神社、十三天狗の祠が鎮座しています。
祭りの時期は祠の前で悪態をつくということもあるんでしょうかね。


愛宕神社の先には「あたご天狗の森」という立派な公園があります。
フォレストハウスと呼ばれるカフェにはシャワーもついているらしい、巨大な滑り台もあるため休日賑わう森林公園なのかな。


立派なトイレもちゃんとあります。



ありがてぇ。




盛りだくさんの愛宕山を後にして登山道へ。よく踏み固められた幅広の、登山道としては高速道路みたいに快適な道が続きます。


午前11時00分、団子石。
愛宕山の次の目的地としてちょうどいいのはこちらの団子岩になります。笠間アルプスは山中に特徴的な岩が多いとされ、難台山山頂手前の屏風岩などにも紹介の立て札がかかっています。それぞれを磐座として拝んだり、目印として使っていたりしたんでしょうね。
難台山から吾国山へ尾根を歩く


尾根道からは筑波山が良く見えます。筑波山・加波山、そして難台山に囲まれた周辺の盆地は過ごしやすそうな場所に見えますね。写真の盆地は石岡エリアで、常陸大掾氏・小田氏・佐竹氏が争っていた歴史があるそうです。
歴史を掘ると長閑に見える景色にも境目があるんだなと。



笠間、岩間は宍戸氏や佐竹氏の統治が長く安定していた土地なのかなと思って調べると、鎌倉時代の笠間地域は修験者や僧坊の修行の地であり、正福寺と徳蔵寺という二大寺院がバチバチに争っていたそうです。
紛争に乗じて両寺を討ち、勢力を拡大したのが宇都宮一族。時の領主宇都宮頼綱の甥である塩谷時朝が笠間氏を名乗ったと伝わります。笠間氏は小田原征伐まで続いたそう……。寺社仏閣が多いのはそういう歴史があるからなのかな?


団子岩から先も尾根道にはたくさんの露岩が現れます。山の上の尾根に岩があるっていうのはよく考えると不思議です、人が積み上げたわけではないのですから。
隆起した山に雨や風が触れることで徐々に土が流されて、岩が姿を現して今の景色になっているわけですね。


麓にある神社は六所神社でしたが、山中には六福山という場所があります。どういう福が六つ集まってこの名前になったんでしょうね?






屏風岩に近づいてくると道中には岩が目立つようになります。ところどころ自然にできたとは思えないような石の積まれ方、敷き方がされた個所もあり、磐境のようにも見受けられるのが面白いところです。



岩が円形に置かれているようなところに立ってみると、筑波山がよく見えるんです。写真三枚目のような、斜面のほうは細く若い木ばかりで、昔は人の手により開かれてたのではと想像が膨らみます。


人の背丈を優に超える岩が顔を覗かせる山道を登っていきます。難台山に近づくと岩が多くて、それまでとちょっとだけ雰囲気が違う。


ところどころにある展望台のような場所からは加波山と、裾野の里が良く見えます。






午前11時45分、屏風岩。
難台山山頂の手前にあるのが屏風岩。かつての修業の場と伝わっていますが、十数メートルはありそうな巨大な岩が断面を晒しているという場所です。周囲の崖には、写真二枚目のような岩がいくつも顔をのぞかせていてひんやりとした空気が辺りを包んでいます。



この日持ち歩いていたレンズの関係上屏風岩を迫力を伴って説明することはできないのですが、確かに大きいものでした。そして、屏風岩に上る道もあるのですが、ちょっと危険だなと思えるような雰囲気があったので断念。




午前11時55分、難台山。
屏風岩を過ぎればすぐに難台山山頂です。山頂には周囲の眺望を記したモニュメントがあるのですが、木々が多く遠くの景色は楽しめません。



こちらの山頂にはしっかりと社が置いてあるんだけど、西北を向いていたのが印象的です。以前、桐生アルプスで見たような日光男体山方面を向いていたのかな?






難台山から吾国山にかけては、車が通れるんじゃないかと思えるくらい開けた道が続きます。



吾国山との境目にある林道周辺は本当に車用の道だった。


一度舗装路に出てから吾国山へ。






吾国山にはキャンプ場がありまして、駐車場からサイトまでのアクセスが良く、眺望もあるので初夏のキャンプとかには良さそう。



吾国山は関東百名山の一つだそうです、知らなかった。キャンプ場の名前は旧洗心館キャンプ場と言い、県内では林間学校として親しまれていた施設の跡地を再整備して2023年より営業を開始とのこと。




午後1時10分、吾国山田上神社。
キャンプ場を過ぎるとすぐに山頂地点の田上神社が現れます。長かった笠間アルプスの最後のピーク、ここから先は下りとなり、駅にたどり着いて登山終了となります。
吾国山より福原駅へ、田舎道を歩く


田上神社から福原駅までは参道として利用されていたような道を歩くことに。道中にある石碑をよく見てみると、二丁目や三丁目と刻まれており、道中には小さな社も現れます。



丁は明治以前の条里制の土地区画制度では大体110mくらいだったそうです。福原駅に向かう道中にある里宮の田上神社と吾国山山頂の奥宮の間を区切るようにこの石柱があるようですね。


吾国山はカタクリの群生地として有名らしく、カタクリが咲く園地にはトラロープが張られ観光シーズンに向けて準備が進んでいるようです。僕が笠間アルプスを歩いた2月に関してはカタクリのカの字も見受けられませんでしたけど……。






吾国山を下っていても、伐採後の木々に薬剤を塗布し害虫退治をする作業が行われていました。
ビニールに張られた説明を読まないと、ビニールに包まれた切り株が点在するシュールな景色が広がってるなぁ……という感想しか出てこない光景。
その後も、鬱蒼とした杉林の中を通り抜けて下山を進めます。


十二丁目と書かれた石柱まで降りてきました。山道は終わり、山間部に広がる畑を眺めながら歩くのですが、昭和やそれ以前を想起させる眺めが楽しめます。


山から里へ、裾野へと向かう谷には畑が作られているのですが、畑と畑の合間には猛烈な藪が点在しています。


藪を抜けると美しい幾何学模様の畝が姿を現します。



すごい丁寧に作られてる畑だ……。


畝には小さな苗が植えられ、2月の乾燥した風が土を空へ持ち上げて遊んでいます。
奥には淡竹の藪もあり、季節が来れば山に入って食を得るのが楽しそうに思える景色。
山間部の畑を抜けた後も、農家さんが維持している古い家々を眺めながら福原駅へ。街並みに土地との縁を感じながら歩くのは楽しい時間でした。


午後2時15分、北関東自動車道下。
福原駅を目前として突如として現れるのが高速道路です。それまでの風土や土着への眼差しが吹き飛びます。
列島改造という近代日本の目的により生まれた構造体が作った景色を間近で堪能できるなんて中々無い機会です。



ドイツにHans-Christian Schink(ハンス・クリスティアン・シンク)という写真家がいます。僕は彼の写真が大好きなんですが、彼の代表作「Verkehrsprojekte」(トラフィック・プロジェクト)はドイツ統一交通網計画において作られた高速道路を被写体としています。高速道路がもたらす流通網による経済の発展や格差の是正を目指そうとする人々の意識の総体。つまり、国家というモノが発揮する大きな力が自然に介入することで、景色をどう変化させたかをということを考えさせる作品です。
高速道路を見るとね、やっぱり彼の作品を意識して真似したくなるんですよね……。


高速道路をまじまじと観察すると、その巨体は(当たり前だが)過疎地といえる農村地帯を巧妙に選択し建造されている。


水田だったのか、畑だったのか、そのど真ん中をぶち抜く北関東自動車道の無機質で無骨な有様と、その背景に佇む瓦屋根の日本家屋を眺めながら駅に向かいます。



戦後の列島改造で全国的に整えられた道路。それは日本から僻地や村を無くしていったと考えられています。無くなっていく村や風土を記録するという態度の作家さんは沢山いますが、彼らには江戸時代の菅江真澄や近藤富蔵に通じるものを感じますね。






午後2時45分、福原駅。
高速道路の周りをうろうろして時間をつぶしてしまいました。
福原はそもそも電車の本数が少なく、25年当時は1時間に1本電車が来るという状況。
駅の周辺にはご飯どころもないし、お風呂もない、酒屋もない、畑に政党の立て看板がポツポツとあるだけ、家に帰るしかない……。
ということで、紺色が特徴的な水戸線に乗車した後は小山へと向かい、宇都宮線を利用してさいたまへと戻りました。



吾国山を降りてそのまま駅に来ていたら、時間を持て余した事でしょう。高速道路を眺めていたおかげで丁度電車に乗ることができました。











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